< 開 祖 の お 話 >

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[ 親 鸞 ]

[ 日 蓮 ]

[ 栄 西 ]

[ 道 元 ]

[ 隠 元 ]



釈 尊
今から2500年ほど前、ヒマラヤ山脈の南の麓(現在のネパール領)に釈迦族の都カピラ城があり、
ゴータマ家のスッドーダナ
(浄飯)王が国を治めていました。
王とその妃マーヤー
(摩耶夫人)は久しく子に恵まれませんでしたが、
結婚20数年の歳月の後ついに子を授かり、臨月近く、マーヤー夫人は、
当時の習慣に従って出産のため故郷のデーヴァダハに帰る途中、
休憩されたルンビニー
(世界遺産)にて王子をご出産。
ときに花咲き誇る4月8日のことでした
〈*1〉

王子は誕生後すぐ七歩歩み右手は天を左手は地を指し、
天上天下唯我独尊
(世界で一つだけの命、特別なオンリー・ワン)
と話したと伝えられています。

スッドーダナ王は王子の誕生をたいそう喜ばれ、その子を 「一切の願いが叶えられた」 という意味のシッダッタ
(悉達多)と名付けられました。

しかし、残念ながら母のマーヤー夫人は出産の影響で体調を崩し、産後一週間で亡くなられます。 シッダッタ王子はその後、マーヤー夫人の妹マハーパジャパティ
(摩訶波闍波提)によって養育されました。

王子は、19歳でヤソーダラ
(耶輸陀羅)を妃として迎え、嗣子ラーフラ(羅目侯羅)をもうけ、
何不自由ない生活が保証されていましたが、
四門出遊の物語にあるように、生まれてきた命の中に、老いること、病になること、死ぬこと、という苦しみを既に抱えており、
老・病・死の根本的“苦”からは決して逃れられないという現実と、解脱を求め苦しみを克服するため修行している僧との出会いから出家を決意。 王子29歳の時でした。

出家したシッダッタは、極端な断食をはじめ、長時間呼吸を止めるなどの苦行を6年間実践。
しかし、悟りを得ることが出来ず、苦行を捨てネーランジャラー
(尼連禅河)にほど近い
ウルヴェーラー
(後にブッダガヤと呼ばれるようになる)のピッパラ樹(後に菩提樹と称されるようになる)の下の石に座して静観に入り、ついには真理を得て悟りを開き、仏陀(真理に目ざめた人)となられたのです。 ときにシッダッタ35歳の12月8日明けの明星が輝く頃でした(降魔成道〈*2〉

シッダッタはこれ以後、釈迦族の聖なる覚者という意味から「釈迦牟尼仏陀」と尊称され、
「釈迦牟尼世尊」とか、それを略して「釈尊」などと呼ばれるようになりました。

釈尊は、バーラーナシー
(現在のベナレス)郊外の鹿野苑(現在のサルナート)に向かい、
そこで五人の修行者に対して初めて教えを説いたと伝えられています(
初転法輪)。

45年間裸足で諸国を行脚し、多くの人々に精力的に教えを説かれた釈尊ですが、80歳を迎え自らの入滅が近いのを感じ、衰えた身体で故郷カピラ城を目指して最後の旅に出ます。
しかし、ついにクシナーラー近くで、2本のサーラの樹
(沙羅双樹)の間に、
頭を北に顔を西に向けて横たわり、最後の瞬間まで教えを説いて静かに入滅。
2月15日のこととされています(
涅槃〈*3〉

釈尊の悟りの内容は、「すべてのものは因縁によって生起する」という
縁起の法で、
ここから
四諦八正道などの具体的教えが導き出されました。


仏教三大行事
 *1… 4月 8日は「降誕会」「仏生会」「灌仏会」「花まつり」と呼び、
                       誕生仏に甘茶をかけてお祝いします。
 *2…12月 8日は「成道会」を行いお祝いします。
 *3… 2月15日は「涅槃会」を勤修します。


三法印
(さんぽういん)…仏教の基本的考え方。
 諸行無常(しょぎょうむじょう)…すべてのものは変化し続け、常なるものは存在しない。
 諸法無我(しょほうむが)   …すべてのものは互いに関係し、共に支えあっている。
 涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)…煩悩を滅した悟りの境地は安らかである。

四 諦 (したい) …四つの真理四聖諦(ししょうたい)ともいう。
 苦諦( くたい ) … 直面する問題の認識。
 集諦(じつたい)… 問題の原因の把握。
 滅諦(めつたい)…解決方法の検討。
 道諦(どうたい)… 解決への努力。

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最 澄 (伝教大師) (767〜822) [ 天台宗 ]
神護景雲元(767)年、近江国古市郷(現在の坂本)で誕生。 12歳で近江国分寺に入り、14歳で得度、最澄と名乗る。 延暦 4(785)年、19歳の時に東大寺戒壇院にて具足戒を授かるも満足できず、一人比叡山に上って一乗止観院(現、根本中堂)を建立し修行に励む。

延暦23(804)年38歳の時、桓武天皇の命をうけて遺唐使と共に唐へ留学し、天台山などで天台教学(円教)を学び、大乗菩薩戒を授かり、さらに禅と密教を相承し、延暦24(805)年遣唐使と共に帰国。 明けて延暦25(806)年、円・密・禅・戒の四つを統一して日本天台宗を開き、公認される。 最澄は法華経を教義とし、「全ての人は等しく成仏する」という一乗思想(法華一乗)を展開、その後の鎌倉仏教各宗派の開祖たちに大きな影響を与えた。 この教えは、後に「山川草木悉有仏性」という思想まで行き着く。

晩年最澄は、「山家学生式」を定め、大乗戒壇設立に尽力。
弘仁13(822)年6月4日(旧暦)、比叡山中道院で入寂。 56才。
同年6月10日、大乗戒壇設立の勅許が下る。
翌年2月26日、延暦寺の寺号を賜わり、天長 4年(827年)5月1日比叡山に大乗戒壇院が建つ。
貞観 8年(866年)、清和天皇より伝教大師の謚号を賜わる。 これは日本最初の大師号である。



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空 海 (弘法大師) (774〜835) [ 真言宗 ]
宝亀 5(774)年、讃岐国屏風浦(現在の善通寺市)の豪族・佐伯氏の子として生まれる。
15歳で上京し、18歳で大学寮に入り、明経道で学ぶも飽き足らず、
ある僧侶から『虚空蔵求聞持法』を聞いたのをきっかけに、官吏の道を捨て放浪の僧として、
四国の石鎚山や大和の吉野山などの霊地で山林修行を重ねる。
そして、延暦16(797)年に『三教指帰』を著す。

延暦23(804)年、遣唐使の留学僧として入唐した空海は、唐の都・長安で、当時中国密教の
第一人者である青龍寺の恵果
(746〜805)に師事、金剛・ 胎蔵両部の密教を授けられ、
遍照金剛」の灌頂名を与えられる。 大同元(806)年に帰国。

帰国した空海は、まず自ら持ち帰った経典類を「請来日録」としてまとめ、朝廷に献上。
それによれば、密教経典類は新しく日本に伝えられたものばかりであった。

大同 4(809)年には京都の高雄山寺(後の神護寺)に住し、
弘仁 7(816)年高野山を賜わり、
金剛峯寺を建立。
弘仁14(823)年には東寺(教王護国寺)を賜り、
合わせてこの二寺を密教の根本道場とし、
インドや中国にはみられなかった密教の組織的・論理的展開を
果たし、宗派として大成させたのである。

後に、最澄が伝えた天台宗の密教を「台密」と呼ぶのに対し、
空海のそれは東寺の密教「
東密」と呼ばれるよになる。

また、満濃池の修復や綜藝種智院の設立などの社会事業・文化事業も行い、
承和 2(835)年に高野山で入定。 延喜21(921)年醍醐天皇より
弘法大師の諡号を賜る。
能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に
三筆のひとりに数えられる。

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良 忍 (1072〜1132) [ 融通念仏宗 ]
延久 4(1072)年、尾張国知多郡(現在の東海市)で誕生。 12歳で比叡山に上って得度。
修行を重ねた後、山を降り大原に隠棲し苦行に打ち込む。
壮絶な修行の後、永久 5(1117)年、46歳の時に阿弥陀如来の示現を受け、「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行  是名他力往生 十界一念 融通念仏 億百万遍 功徳円満
(一人の唱える念仏の功徳が万人(多くの人)の念仏の功徳となり、万人の唱える念仏が、また一人の念仏の功徳となる)」という教えから融通念仏を創始。

これは、
一即一切・一切即一という言葉で表されるように、「大宇宙の中にある凡ての物は、それぞれが関連し合って存在している。 だから、一微塵(極めて細かいもの)をとればそのなかに大宇宙が含まれているし、宇宙は微塵を含んでいる」という哲学思想で、『華厳経』という経典に基づく考え方である。

そして、一人の念仏があらゆる人の念仏と融通し合って極楽浄土に
往生できると説くことから、「他力往生」と名づけている。
さらに、念仏だけではなく、一つの善い行ないが、他のあらゆる善い行ないと融通するとも説いている。

良忍は、開宗以来、この教えを実行に移し、全国に "念仏勧進" の行脚をしてまわった。

なお、衰退していた天台声明の統一をはかり、魚山流声明を大成、天台声明中興の祖と仰がれている。

安永 2(1773)年、聖應大師の諡号を賜る。


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法 然 (1133〜1212) [ 浄土宗 ]
平安末期から鎌倉初期にかけて、「仏教が衰え世の中が乱れる」という "末法思想" が日本中に広まっていた。

これを憂いた法然は、出家者でなくても誰もが "阿弥陀仏" の誓いを信じ、それにすがることによって浄土に生まれて悟りを開くことができるとする "易行道" の考えにもとづき、ただ "阿弥陀仏" の名をとなえること(専修念仏)だけで極楽浄土に往生できると説いた。
立教開宗は承安 5(1175)年、43歳の時のことである。後に、法然は念仏が往生成仏の根本であることを説いた書
『選択本願念仏集』を著したが、これは立教開宗の宣言書に擬せられた。

法然は長承 2(1133)年 4月 7日、美作国久米
(現在の岡山県誕生寺)で誕生。 9歳の時に夜襲で父を失い、菩提寺の住職であった母方の叔父のもとに引き取られ、13歳で比叡山に上り得度。 天台教学を学ぶ。 18歳の時、黒谷に移り、念仏の教えに触れ大きな影響を受ける。 この頃、法然房源空と名乗る。

12年間の修行の後、山を降り京都や奈良に遊学し、浄土教を学ぶも満足せず再び黒谷に戻る。 以来20年近く念仏修行に励む。

そして、43歳の時、中国の善導(613〜681)が著した『観無量寿経疏(観経疏)』を読み、「南無阿弥陀仏を称えれば、誰でも極楽浄土に往生できる」という教えを感得。凡夫が救済される道は「称名念仏(口称念仏)」 であることを確信し、比叡山を下りて東山吉水に住み、専修念仏の布教を 開始。

念仏の教えが広まりをみせると、既成教団から念仏の教義問答を迫られる(大原問答)。 以降、その教えは一気に広まり、末法時代で不安におののく大衆を魅了。 これが更なる叡山や南都の反発を受け念仏停止を訴えられ、四国へ流罪となる。
4年後の建暦元(1211)年赦免となり帰京。 翌年 1月25日80歳でその生涯を閉じた。
その2日前、弟子の懇願で
『一枚起請文』を記す。

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親 鸞 (1173〜1262) [ 浄土真宗 ]
「南無阿弥陀仏」の称名念仏によって浄土に往生できる ― とした浄土宗の開祖・法然の他力思想をさらに一歩おしすすめたのが、法然の弟子・親鸞である。
親鸞は、往生のきっかけを「信」におき、阿弥陀如来の本願を信ずる心をいただいたときに、その人は往生できると説いた。

承安 3年(1173)年 4月 1日、藤原家の末流・日野有範の子として誕生。
9歳の時、青蓮院に於いて後の天台座主・慈円僧正のもと出家し、
比叡山で20年間修学。 29歳で叡山を下り、法然の弟子となって "専修念仏" 運動に身を投じた。

1207年、興福寺の貞慶ら当時の既成仏教八宗を代表して専修念仏の禁止を求める奏上を提出。 師・法然とともに流罪となる(承元の法難)。 法然は土佐
(高知県)へ、親鸞は越後(新潟県)へ配流。そこで「非僧非俗」の立場をとり妻帯する。
1211年流罪を解かれた親鸞は、常陸
(茨城県)に居を定め、二十余年のあいだ関東地方で布教につとめ、晩年京都に戻り、1262年11月28日90歳でその生涯を閉じた。
明治9年(1876年)
見真大師の諡号を賜る。

親鸞の言葉の中で最も有名なのが、
善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をやであるが、悪人こそ阿弥陀仏の本願にかなうものであるという悪人正機説は、既に師・法然に見られる思想である。 それを強調し教義的に整備したのが親鸞である。
ただし、ここでいう悪人とは、いわゆる悪人のことではなく、己の内面を見つめ続け、自分は何と罪悪深重な凡夫であるのかと苦しんでいる人々、もしくは生業上やむを得ず罪を背負ったり、穢れを引き受けざるを得ない人々のことである。


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日 蓮 (1222〜1282) [ 日蓮宗 ]
16歳で出家、鋳倉、 比叡山を中心に11年間の修学ののち、『法華経』こそが釈迦の説く最高の経典であると確信。 1253年、清澄山頂で 「南無妙法蓮華経」の題目を高唱したときをもって、
立教開宗の年とされている。

日蓮は1260年に『立正安国論』を著し、浄土宗、禅宗などの他宗派を批判。『法華経』を信じないと天変地異が続き、国難が来ると予言した。
この書を鎌倉幕府に提出するとともに、日蓮は鎌倉で辻説法をつづけたが、その主張が受け入れられず幕府に捕えられ、伊豆、佐渡へと流される。
1274年に許された後は、甲州
(山梨県)身延山で弟子・檀越の教育にカを注ぎ、身延山を信仰の中心とするべく礎を築いた。
その9年後、病気治療のため常陸
(茨城県)に湯治に赴く途中、武蔵国池上(現在の東京都大田区池上)で亡くなった。

日蓮の没後、後事を託された弟子の六老僧(日昭、日朗、 日興、日向、日頂、日持)は、
それぞれ、日蓮の教えの布教伝道につとめた。


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栄 西 (1141〜1215) [ 臨済宗 ]
日本の臨済宗の開祖。 14歳で比叡山に上り天台教学と密教を学び、1168年、南宋に留学。
47歳で再び入宋し、黄龍派の虚庵懐敞に師事。 四年の修行の後、臨済宗の印可を受ける。

帰国後、筑前、肥後を中心に布教。 1195年に聖福寺を建立、日本最初の禅道場とする。
1198年、『興禅護国論』を著し、禅の立場を明らかにする。
比叡山の圧力によって布教禁止とされたため、関東に下向。
鎌倉幕府に近づき、1202年建仁寺を建立。 禅宗の独立と繁栄の礎を築く。
また、『喫茶養生記』を著し、茶祖ともいわれている。

禅の根本思想は
教外別伝不立文字直指人心見性成仏 の達磨の四聖句に収斂される。 経典や言葉に頼ることなく、説かれた言葉 以外に真理が存在し、仏性を持つ本来の自分に気がつくこと、それが悟りである。
つまり、人間の主体性を重視し、生まれながらにして誰もが具えている、尊厳で純粋な人間性を自ら悟ることにより、仏とかわらぬ人間の尊さを経験することにある。
それを得るがために、
公案を用いて、坐禅と作務(労働)を重視する。


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道 元 (1200〜1253) [ 曹洞宗 ]
八世紀の初め頃、中国に成立した曹洞宗(開祖は洞山)を道元が日本に伝えた。

道元は比叡山で天台教学を学んだ後、建仁寺にて栄西の弟子・明全に師事し禅を修め、1223年に明全と共に入宋。 そこで最初、 "臨済禅″を学んだが満足できず、1225年、洞山十三世の如浄に出会い、如浄こそが求めていた正師であることを知 り、如浄に師事、三年間の修行を経てその法を嗣いだ。

1227年秋、宋から帰国した道元は、京都の建仁寺に入り、『普勧坐禅儀』を著し、「坐禅は苦行でなく、証上の修、 本証の妙修で、坐禅こそ安楽の法門である」と説いた。
のち1234年に山城国深草に興聖寺(宝林寺)を建立、『弁道話』
(『正法眼蔵』の序章)を著して
釈尊より迦葉尊者、達磨大師、如浄禅師へと滴伝の仏法の真髄を宣揚した。
これがすなわち、日本の"曹洞宗″の始まりである。

興聖寺における道元は
『正法眼蔵』の執筆をつづけるかたわら、訪れる僧侶を教化した。 やがて1243年、越前に下 り、大佛寺(後の永平寺)を開山。
ここを曹洞宗の根本道場と定め、生涯に わたって権勢や名利に近づかず、
『正法眼蔵』を執筆、
只管打坐(ひたすら坐禅をすること)を説きつづけた。


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隠 元 (1592〜1673) [ 黄檗宗 ]
中国・明代末の禅宗の高僧・隠元隆gが、江戸時代初期(1654年)に来日、徳川四代将軍・家綱より山城国宇治(京都)に寺領を賜わり、 "黄檗山萬福寺″を創建した。

隠元は、生地である福建省の古刹で、臨済義玄の師・黄檗希運が住山して臨済禅の道場として栄えた黄檗山万福寺の住持となった僧で、明代末の中国における臨済系統の禅宗の重鎮であった。

教えの特徴は人間が生まれながらにしてもっている仏心を、坐禅行を行なうことによって、自らの力で見出し、仏陀と同様の境涯を体得させようとするもの。

仏心の発見 ― 悟りの境地に到達することはなかなか難しい。 しかし、坐禅によって心身の統一をはかり、また労働奉仕の喜びを覚え、朝夕の写経により自己反省を促し、厳格な食事作法に一粒米の尊さを教える…など、日常生活における一挙手一投足をして、仏陀の世界へ近づけようとする精進(努力)、それが大切なのだと説く。

参禅をもって仏心を究明し、『唯心の浄土、己身の阿弥陀仏』を体得し、禅教一如の妙諦により転迷開悟安心立命を期するを教義としている。

臨済系の宗風に明代の "念仏禅" を加えた隠元の教えは、往生浄土や念仏などの浄土教教義をあわせて説き、念禅一致をはかる一方で、真言陀羅尼などの密教的要素も加味している。

また、漢文ではなく、本場の唐韻による誦経は、その独特な節回しで、「黄檗の梵唄」として有名である。


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