< 開 祖 の お 話 >
釈  尊

[誕 生] [出 家] [苦 行] [成 道]
[初転法輪] [涅 槃] [古代インド] [正覚内容]





< 誕 生 >
今からおよそ2500年前、「雪を蓄えた」という意味のヒマラヤ山脈の南麓に、農耕や牧畜を営んでいた
サーキヤ
(梵語シャーキヤ、釈迦)族の都カピラヴァットゥ(カピラヴァストゥ)があり、
ゴータマ
(ガウタマ、瞿曇)家のスッドーダナ(シュッドーダナ、浄飯)王がこの地方を統治していました。
王の妃マーヤー
(摩耶)は、コーリヤ族の都デーヴァダハ(天臂)の姫で、結婚20数年後に一子を身ごもり、
出産のために故郷へ帰る途中のルンビニー
(現在のネパール西南部のタラーイ地方にある村。1997年に世界遺産。)において男の子を出産。 王子は誕生後すぐ七歩歩み右手は天を左手は地を指し、四門出遊
「天上天下唯我独尊世界でただ一つの尊いこの命、だからこそ、全ての命は比べることの出来ない尊いものなのだ)と話したと伝えられています。 時に紀元前463年(*1) 4月8日のこと。 スッドーダナ王は王子の誕生をたいそう喜ばれ、その子を 「一切の願いが叶えられた」 という意味のシッダッタ(シッダールタ、悉達多)と名づけられました。この王子こそ、後の釈尊なのです。

マーヤー夫人は、産後の肥立ちが悪く七日後に亡くなり、王子は、マーヤー夫人の妹マハーパジャパティ
(マハープラジャーパティー、摩訶波闍波提)(2) により養育されました。

豪奢な宮殿での暮らしは、物質的に不自由なく、多くの待者にかしずかれて贅の限りを尽くしたといいます。 そんな恵まれた環境の中、あらゆる学問や武術を習得し非凡な才能を発揮したシッダッタ王子ですが、生まれつき感受性が強く、内省的で瞑想を好んだといわれています。


 *1; 釈尊の生没年代は諸説があり、アショーカ王即位の年(紀元前268年)より逆算して想定する考えが一般的。
   それにも二説あり、南伝では、王即位の年より218年前に入滅との伝承から紀元前565〜485年。
   北伝では、116年前との文献から紀元前463〜383年。
   また、誕生日も、南伝では、ヴェーサーカ(ヴァイシャーカ)月(インド暦第二月)の満月の日。
   北伝では、この4月8日とされている。

 *2; デーヴァダハ城スプラブッダ(善覚)王の子とする説もある。



< 出 家 >
ある春祭りの日、父王に従い田園に出た時のことです。 農夫の耕す様を見ていると、鋤の先に土の中から這い出た小さな虫がおり、すかさず小鳥が飛んできてその虫をついばみ、今度はさらに大きな鳥が小鳥を襲い飛び去るのを見た王子は、生き物が互いに殺し合う自然界の厳しい生態系を憐れみ、自分自身も他の命を奪って生きているという現実に強く無常を感じたといわれています。 そして、強国マガダとコーサラ(カウシャラ)にはさまれいつ侵略されるかもしれないという苦悩、更には、生母を自らの出産のために失ったことも影響して、人生問題で深く思い悩み独り瞑想に耽ることが多かったようです。

そんな王子の有様を見て、世を厭うあまり出家してしまうことのではないかと憂いた王は、王子の従妹
(母の兄スプラブッダ(善覚)王の娘)ヤソーダラー(ヤショーダラー、耶輸陀羅)(*3) を迎えて王子の妃と定めました。 シッダッタ19歳の時です。 以後10年間、夏・冬・雨季それぞれの季節に適した三つの宮殿(ラーマ、スラーマ、スバタ)で暮らし、音楽を奏でる女性に囲まれ快楽の限りの生活を楽しみましたが、それでも王子の心の憂いと悩みは離れず、沈思黙考して人生を見極めようと苦心の日々を過ごしました。

王子29歳の年、一子ラーフラ
(羅目侯羅)をもうけた時、シッダールタはついに出家を決意します。
御者チャンナ
(チャンダカ)を伴い、愛馬カンタカにまたがり城を後にしました。
一晩中走り続け夜明け頃にアノーマー河のほとりに着き、そこでチャンナと愛馬カンタカを返し、
髪と髯を剃り下ろし、黄褐色の衣を身に着け出家者となったのです。四門出遊

四門出遊の物語では、ある日シッダッタが城の東門から出ると、髪は白く歯は抜けて皺が寄り腰が曲がって杖を手にやっと歩く老人を見かけ、誰も老いからまぬがれることは出来ないと知り、またある日南門から出ると、倒れて苦しんでいる病人を、
また別の日西門から出た時は、皆が嘆き苦しみながら死者を送る葬列を見ました。
シッダッタは、「生まれた者に老・病・死がやってくるならば、生まれることは禍いである(四苦)」と思い、無常を感じて城に引き返してしまいます。 最後に北門から出た時、清らかな尊い出家者と出会い、生老病死の根本的苦しみを克服するために出家を決意したとあります。

物語の史実性はともかく、出家は一般的に当時の社会的風潮としてはそんなに珍しいことではありませんでした。 当時の社会にはアーシュラマという四種の生活階梯があり、人間の一生を
学生期(ブラフマチャーリン)家住期(グりハスタ)林棲期(ヴァーナプラスタ)遊行期(パリヴラージャカ、サニャーシン)に分ける慣習があり、釈尊もこれに従ったのであろうと推定されます。


 *3; カピラ城の執杖ダンダパーニの子とする説や大臣マハーナーマの娘とする説など異説あり。



< 苦 行 >
出家したシッダッタは、商業都市ヴェーサーリー(ヴァイシャーリー、毘舎離)付近を通り、ガンジス河を渡り、マガダ国の都ラージャガハ(ラージャグリハ、王舎城、現在のラージギル)へ向かう。
ヴェーサーリーは、ジャイナ教開祖マハーヴィーラ
六師外道の一人)の生地で多くの哲学者がいたと思われ、ここでシッダッタはバッガヴァ仙人の苦行を観察。
ラージャガハは、当時インドにおける政治と文化の中心地で、国王のビンビサーラ
(頻婆娑羅)は多くの宗教者や哲学者を保護しており、そこの近くでアーラーラ・カーラーマ(アーラーダ・カーラーマ)とウッダカ・ラーマプッタ(ウドラカ・ラーマプトラ)両仙人に師事し、それぞれ「無所有処定」と「非想非々想処定」の二つの三昧(禅定)を教わる。
しかし、どれも悟りの道でないと知ったシッダッタは、ネーランジャラー
(ナイランジャナー)河のほとりのウルヴェーラー(ウルヴィルヴァー)のセーナーニー村(現在はバッカロール村)の林にはいり、同郷のコーンダンニャ(カウンディニヤ)など修行者仲間五人(後に五比丘と呼ばれる)と共に苦行生活に入る。 極端な少食・断食をはじめ、長時間息を止める瞑想や、棘の上に寝る、常に直立したまま座らない、また、常にうずくまったまま歩くなど、身体の難行苦行を6年間行い、目は窪みついに骨と皮と筋だけになってしまう。 しかしこれも、ただ肉体が疲労困憊し精神の働きを朦朧とさせるだけで、悟りを得ることは出来ないとわかり、苦行一辺倒の修行も捨てる。 そして、ネーランジャラー河で身を洗い、やっとの思いで身を横たえ、そこを通りかかった村の長者の娘スジャーターの乳粥(梵;パーヤサ)供養により、衰えた体力を回復していったのである。

この時、五人の修行者仲間は、シッダッタが堕落したと思い失望し、シッダッタを見捨ててイシパタナへと去って行った。



< 降魔成道 >
残されたシッダッタは、ひとり静かにアサッタ(アシュヴァッタ、後にピッパラ)樹を背にして東に向かって坐り(*4)、瞑想に入った。 降魔伝説(*5)によると、この時、魔王が大勢の魔軍を引き連れ次々と襲いかかってきたとされている。 最後の魔王との対決では、シッダッタが右手を地面につけて(触地印、降魔印)魔軍が退散。 魔王との戦いに打ち勝ち、夜明けを迎えて明星を仰いだ時、ついに縁起(パティッチャ・サムッパンナ、梵;プラティートヤ・サムットパーダ)についての智慧を得て仏陀(真理に目ざめた人、覚者)となられたのであった<成道>。 12月8日(*6) 、シッダッタ35歳の時である。

シッダッタはこれ以後、釈迦族の聖なる覚者という意味から「釈迦牟尼仏陀」と尊称され、「釈迦牟尼世尊」とか、それを略して「釈尊」などと呼ばれるようになった。 また、正覚を成し遂げたこのウルヴェーラーは後に
ブッダガヤーと呼ばれ仏教における最大の聖地となり、アサッタ樹は菩提樹と称され、座した石の座は金剛座(梵;ヴァジラ・アーサナ)と呼ばれるようになった。


 *4; インドでは東は希望を意味する。
 *5; 仏伝には悪魔が度々登場する。成道前の苦行中と成道後、それから入滅前など。
    仏教学では悪魔を@ 煩悩魔 A 死魔 B 蘊魔 C 天魔 の四種類に分類する。
    それぞれ、ひとりでにひきつけられ幻惑させるもの、死のようにどうにもならないもの、
    煩悩や死の拠り所となる肉体、それから、他に頼るという心理を意味する。
    Cは欲界の最高位の神で、仏道修行を妨げる存在が仏教を守護する他化自在天とされる点に注目。

 *6; 南伝ではヴェーサーカ(ヴァイシャーカ)月(インド暦第二月)の満月の日、北伝では12月8日とされている。



< 初転法輪 >
正覚を成就し仏陀となった釈尊であるが、その後無花果の樹の下で黙想に入った時、自らの悟りの内容は難解で、煩悩に悩まされている人々に教えることは容易でないと、人のために説法することを躊躇する。 そのことを知った、インドにおける最高神ブラフマー(梵天)が釈尊の前に現れ、再三の説得にようやく説法を決意し立ち上がったといわれている。 この説話を梵天勧請といい、最高神の梵天、すなわち全人類の代表者の要請により、一切の人々へ教えを説くこと(衆生済度)を決心するまでの心の変化を伝えている。

釈尊最初の説法は、出家直後に師事した二人の仙人に対してなされようとしたが、二人の師は既に亡くなっており、やむなく、最も身近でかつて苦行生活を共にした五人の修行仲間に対してなされようとする。
そこで、彼らのいるバーラーナシー
(ヴァーラーナシー、現在のベナレス)の北東約10キロの地のミガダーヤ(ムリガダーヴァ、鹿野苑、現在のサールナートに向かう。 近づく釈尊に対し五人の修行者は、彼は苦行を捨て堕落した者であると非難し無視しようと申し合わせたが、近づくにつれ自然と釈尊の教えに耳を傾けた。
ここで釈尊は、愛欲と苦行の二極端を離れた
中道(マッジマー・パティパダー、梵;マディヤマー・プラティパド)、すなわち四諦八正道の教えを説いたという <初転法輪>。
説法を受けた五人は、最初の弟子
(五比丘、梵;パンチャ・ビクシュ)となり悟りを開く<サンガ(僧伽)の成立>。 さらにこの地で有力豪商の息子ヤサと四人の友人を弟子に、ヤサの両親は最初の在家信者ウパーサカ(優婆塞)とウパーシカー(優婆夷)になる。釈尊は彼らに対して「二人して一つの道を行かぬがよい」と説き伝道を促し、自らもバーラーナシーを離れラージャガハに向かう。

その途中のウルヴェーラーで、バラモン僧カッサパ三兄弟
(カーシャパ、三迦葉)とその弟子一千人を教化。
その名声を聞いたマガダ国王ビンビサーラも都
ラージャガハで教化、ヴェヌヴァナヴィハーラ(竹林精舎)を寄進される。 そしてここを説法の拠点とし、雨期の三ケ月の安居を除いて各地を遊行した。転法輪

人々は、あたかも渇いた者が水を求めるように、釈尊のもとに寄り集い、十大弟子
(*7)の双璧といわれるサーリプッタ(シャーリプトラ、舎利弗)やモッガラーナ(マウドガルヤーヤナ、目連)もかつての師サンジャヤ六師外道の一人)の許を去り、二百五十人の弟子と共に帰依。この頃にマハーカッサパ(大迦葉)も仏弟子となる。故郷のカピラヴァットゥに赴いた時には、釈尊の出家を憂いこれを止めようとした父スッドーダナ王と養母マハーパジャパティ(最初の比丘尼)をはじめ、釈尊の出家によって深い苦しみを味わった妃ヤソーダラーと一子ラーフラ、異母弟ナンダ(難陀)、それからアーナンダ(阿難陀)、ウパーリ(優波離)、アヌルッダ(アニルッダ、阿那律)など多くの釈迦族を帰依させた。

また、多くの有力者から寄進も受ける。カランダカ長者寄進の竹林精舎
(ヴェールヴァナ・カランダカ・ニヴァーパ、梵;ヴェーヌヴァナ・カランダカ・ニヴァーパ)をはじめ、ラージャガハには医師ジーヴァカ(耆婆)によるジーヴァカ園。ヴェーサーリーにはアンバーパーリー(アームラパーリー、菴摩羅女)によるアンバーパーリ林。コーサンビー(カウシャーンビー)にはゴーシタ園やククタ園。カピラヴァットゥにはニグローダ(尼拘律陀)園。そして、コーサラ国の都サーヴァッティー(シュラーヴァスティー、舎衛城)にはスッダッタ(須達多)長者による祇園精舎(ジェータヴァナ・ヴィハーラ)(*8) など。 特にこの祇園精舎は釈尊が最も多く安居を過ごした場所で、コーサラ国における教化活動の拠点となっている。

 *7; 十大弟子 / 智慧第一…サーリプッタ (シャーリプトラ、舎利弗)
        論議第一…マハーカッチャーヤナ (マハーカーティヤーヤナ摩訶迦旃延)
        神通第一…マハーモッガラーナ (マハーマウドガルヤーヤナ、摩訶目牛建連、目連)
        天眼第一…アヌルッダ (アニルッダ、阿那律)
        頭陀第一…マハーカッサパ (マハーカーシャパ、摩訶迦葉、大迦葉
        持律第一…ウパーリ (優波離)
        解空第一…スブーティ (須菩提)
        密行第一…ラーフラ (羅目侯羅)
        説法第一…プールナマイトラーヤニープトラ (富楼那弥多羅尼子)
        多聞第一…アーナンダ (阿難)

 *8; 祇園精舎…孤独な貧者に食を給して「給孤独長者」と呼ばれていたスッダッタ長者は、仏教への信心が篤く、精舎
        を寄進したいと考え土地を探したところ、ジェータ(祇陀)太子の園を最適な場所と考え交渉を始める
        が、太子は本気にせず、「園林を金で敷きつめたら譲っても良い」と戯れで言ったところ、長者が本当
        に金を敷き出したので、その意を理解し、その地を長者に譲る。太子もその熱意に打たれ樹林を寄進。
        そこに二人共同出資による精舎を建立したので、ジェータ所有の樹林(ジェータヴァナ)と給孤独(ア
        ナータピンディカ)所有の園という意味の祇樹給孤独園(ジェータヴァナアナータピンディカ・アーラ
        ーマ、梵;ジェータヴァナ・アナータピンダダスヤ・アーラーマ)、略して祇園精舎と呼ばれる。
        カニンガムの発掘調査により、ネパール南境に近いラプティ河の南岸のマヘートを舎衛城、
        さらにその南のサヘートを祇園精舎と断定。



< 涅 槃 >
北伝では、「三道宝階の伝説」(*9)後の二十数年の足跡について明確ではないが、釈尊の晩年は、パーリ語『長部』の大般涅槃経(マハーパリニッバーナスッタンタ)によって知ることが出来る。 この経典には、ラージャガハからクシナーラー(クシナガラ)まで300キロにも及ぶ釈尊最後の旅路〜道程・説法の内容・まわりの人々のインド仏教史略地図様子などが詳しく記されいる。

『大般涅槃経』は、釈尊が、ラージャガハのギッジャクータ
(グリッドラクータ、霊鷲)山にいた時から始まる。 その頃、マガダ国アジャータサットゥ(アジャータシャトゥル、阿闍世)王は、隣国ヴァッジ(ヴリジ)族を征服しようと野望に燃え、釈尊の許に大臣ヴァッサカーラを使者として遣わし意見を求めた。 釈尊は、まずアーナンダにヴァッジ族の様子を種々尋ねた。 彼らがいつも会議を開き民主的に決めていること、共同して行動していること、法に従っていること、古老を尊び敬っていること、暴力を用いないこと、霊地を敬い供物を欠かさないこと、修行者をもてなすことを。 これは以前に都ヴェーサーリーにおいて説いた七つの衰退することのない教え「七不退法」を今でも守られているかどうかを尋ねたのであった。 そして、その教えを彼らが全て守っていることをアーナンダから聞いた釈尊は大臣に、「この教えを守っている限りは、ヴァッジ族に繁栄はあれど衰退はないであろう」と答え、征服し難いことを示唆。 そして、それに因んで、比丘たちにも教団が衰退しない教えを説き、その直後、旅立ちの決意を告げる。

釈尊はまずアンバラッティカー園にあるアジャータサットゥ王の別荘に立ち寄り、次いでナーランダ村の富商パーヴァーリカのマンゴー林に滞在し、その後パータリ村
(現在のパトナ)へ赴く。 その時この村は、ヴァッジ族との戦いに備えてアジャータサットゥ王が城塞を築きつつあり、釈尊は、この村がやがて大きな都へと発展するが、後に水害で滅びるであろうと予言。 ここで、在家者に、無戒者の五つの損失(大いに財産を失う、悪評が近づく、不安で怖じける、死ぬときに精神が錯乱する、死後地獄に生まれる)と持戎者の五つの功徳(財産が豊かになる、良い評判を得る、泰然として怖じけない、死ぬ時に精神錯乱しない、死後地獄に堕ちることなく天の世界に生まれる)などを説いた。 また、マガダ国の大臣スニーダとヴェッサカーラの食事の招待を受け、ヴェッサカーラと再会する。 食事が終わり、ガンジスの対岸に向かおうとする釈尊を見送った二人の大臣は、釈尊が出発される門を「ゴータマ門」、そして、ガンジスを渡るための渡し場を「ゴータマ渡し」と名づけたという。 釈尊は、広大なガンジス河を人々は舟に乗ったり筏を組んだり苦労して渡っているのに、自らは瞬時に対岸に渡り、コーティ村に赴く。 ここで「四諦」の説法を行い、次のナーディカ村では、仏教信者の死後の行く末についてのアーナンダの質問にまず四沙門果(修行者が得る四つの結果。預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)を教え、それから「法鏡」の説法(*10)を行う。 その後、ヴァッジ族の中のリッチャヴィ族の都ヴェーサリーに向かい、遊女アンバパーリー所有の園林で「四念処」の説法(*11)を行い、アンバーパーリーから食事の供養を受け、その園林を布施される(*12)。それから、ベールヴァ村に移り、ここで雨安居(雨期三ヶ月の定住)に入る。 この時釈尊は発病し、死ぬほどの激痛に苦しめられる。 しかし、苦痛を耐え忍び、病を克服。 そこでアーナンダの請に応えて説かれたのが「自燈明法燈明」の教え(*13)である。

雨安居が終わると、釈尊はヴェーサーリーへ托鉢に行き、チャーパーラ霊樹の下でアーナンダに対して「いかなる人であろうとも四神足(チャッターロー・イッディパーダー、梵;チャトゥル・リッディパーダ)(*14)を修した者は、もし望むなら一却あるいは一却以上の間寿命を延ばすことが出来る」と伝えますが、アーナンダは悪魔によって心を覆われていたため察知できず、お願いしなかったため、三ヶ月後の入滅を決意。 ヴェーサーリー周辺にいる全比丘をマハーバナ(大林)の重閣講堂に集め、三十七道品の説法(*15)を行い、最後に「我が齢は熟した。我が余命は幾ばくもない・・・。」と改めて入滅を予告。 そして、この地をあとにするが、出発の時、釈尊は“象が振り返る”ように全身で振り返ってヴェーサーリーを眺め、「アーナンダよ、これは如来がヴェーサーリーを見る最後の眺めとなるであろう。」と言った。

バンダ村では戒・定・慧の三学やそれに解脱を加えた四法の説法を行い、ハッティ村、アンバ村、ジャンブ村を経てボーガー市へ赴き、ここで四大教示(四大教法・四決定説)
(*16)を説く。 それから、マッラー国パーヴァーに赴き、鍛冶工の子チュンダ所有のマンゴー園に留まり、チュンダから食事(*17)の供養を受ける。 その後、激しい腹痛が起こり、赤い血がほとばしり出るほどの下痢(赤痢の症状)に。 にもかかわらず、アーナンダを促してなおも旅を続け、一本の樹の下で水を飲んで疲れを癒し、そこで、マッラー族のプックサ(プックシャ)という、アーラーラ・カーラーマの弟子に説法し、金色(梵;スヴァルナ)の衣一対を受け、一つはアーナンダに分け与え、もう一つを自らが着ける。 すると、釈尊の体は金色に光り輝き、アーナンダに「如来は二つの時において輝く。それは、悟りを得た時と入滅の時とである(*18)。」と説く。

その後カクッター川に辿り着き、沐浴後、近くのマンゴー樹の林で休み、さらに歩みを進め、ヒランニャヴァッティー
(ヒラニヤヴァティー)川を渡り、マッラー国の都クシナーラー(現在のカシャ村)のサーラ林に着き、そこで力尽きた釈尊は、二本のサーラ樹(沙羅双樹)の間に頭を北に右脇を下にして両足を重ねて静かに横たわれる。 その時、この二本のサーラ樹には時ならぬ花が咲き、覚者を供養するために天の華が降り注いだとある。

横臥しても釈尊は決して説法をやめなかった。 在家者に対しては、出生・成道・初転法輪・入滅の四ケ所(四大仏跡)は信心あるもの者が実際に訪ねて感激する場所であると説き、それらチェーティヤ(祠堂)を巡拝する者は死後天界に生まれることを教え、出家者に対しては、遺骨の供養にかかずらわず修行に専念するよう諭し、葬儀の方法については転輪聖王
(*19)の葬法に倣うよう説いた。 また、若い美貌のアーナンダの女性に対する素朴な質問にも答え、さらには、釈尊の死を目前にし、「あぁ、私はこれから学ばねばならぬ者であり、まだ為すべきことがある。 ところが、私を憐れんで下さるわが師は涅槃に入られるであろう。」と、物陰に去って独り泣いていたアーナンダに、「悲しむなかれ。 嘆くなかれ。 アーナンダよ、私はかつてこのように説いたではないか。 すべての愛するもの、好むものからも別れ、離れ、異なった存在になるということを…。 アーナンダよ、長い間よく仕えてくれた。 これからも努め励めよ。」と懇切に説法。クシナーラーの故事である大善見王(マハー・スダッサナ)の物語が語られたのもこの時である。

釈尊の入滅が今夜半に迫ったと聞いて、マッラー族の人々が集まり、スバッダ
(スバドラ)という遍歴行者もやってきて教えを受け、最後の弟子となる。 いよいよ最期の時が近づき、集まった比丘たちを前にして、滅後の教団の在り方などについて教戒を与え、なお仏・法・僧・道・実践に関して何か疑問がないか三度尋ねたが、誰一人として質問することはなく、アーナンダはこのことに感動し、そこで釈尊は、「アーナンダよ、汝は浄信(パサーダ)からそのように言った。 ところが如来にはこういう智がある。 この比丘衆には、仏について、法について、僧について、道について、あるいは実践について、一人の比丘にも疑いや疑惑がない。 アーナンダよ、これら五百人の比丘たちのうち、最後の比丘でも、預流(聖者の流れに入ったもの)となり、不堕の法をもち、必ず正覚に達する。」と説法し、「すべての存在するものはみな壊れるものである。 怠ることなく精進しなさい。」との言葉を最後に、深い瞑想の境地(*20)に入り、そして、完全なる涅槃(大般涅槃)へと入られたのでした。 釈尊の入滅とともに、大地が震動し、天鼓が鳴り響いたという。 時に紀元前383年(*1)2月15日(*21)のことである。

七日経ち、マハーカッサパと五百人の比丘も到着し、釈尊の遺骸は、地元マッラー族の人々ら在家信者たちの手によって、ヒランニャヴァッティー川の岸辺で火葬に付された。 遺骨は七日間安置され、人々は供養し続けた。 その後、遺骨(仏舎利)を巡り争いが起こり、ドーナ
(ドローナ)というバラモンの仲裁でそれぞれ等分して八つに分骨されることに(八大分骨)。
分骨先は次の通り。
 @ マガダ国のアジャータサットゥ王   D アッラカッパ
(チャラカルパ)のブリ(ブッラ)
 A クシナーラーのマッラー族      E ラーマガーマ
(ラーマグラーマ)のコーリヤ(コーリタ)
 B ヴェーサーリーのリッチャヴィ族   F ヴェータディーパ
(ヴァイシュトラ・ドゥヴィーパ)のバラモン
 C カピラヴァットゥの釈迦族      G パーヴァーのマッラー族

そして、それぞれが仏舎利塔を建てて遺骨を安置。その他、分配の仲裁に当たったドーナは分配に使用した瓶を持ち帰り瓶塔を、また、分配に遅れてきた畢鉢村
(ピッパリヴァナ、梵;ピッパラヴァナ)のモーリヤ族は残っていた遺灰を持ち帰り灰塔を建てて崇拝したという。


 * 9;
釈尊が生後七日目に喪った実母マーヤー夫人に会うため、欲界六天の第二のとう利天(梵;トラーヤストゥリンシャ、
   三十三天)に昇り、彼女に説法して後、大自在天が作った、中央が黄金、左が瑠璃、右が白銀でできた
   三筋の階段(三道宝階)を下って地上に降下したという物語。
   降下した場所は、サンカッサ(サンカーシャ)とされている。

 *10; 法鏡…人間が死後どこに行くのかが問題なのではなく、仏・法・僧への絶対の信心と、仏法の実践という四つの
       条件を満たせば、不退転にして必ず覚りを得るとことができるという教え。
 *11; 四念処…
身念処・受念処・心念処・法念処。
        自相共相をもって、身は汚らわしく、受は苦であり、心は常に移ろい、
        法は本質を持たない仮の姿であると観ずるに至る修行法。 ⇔ 四顛倒

 *12; アンバパーリーは、釈尊に食事の供養を申し出て権利を得、その後遅れてやってきたリッチャヴィ族の若者たち
    からその権利を十万金で譲れと迫られるが拒否。若者たちは直に釈尊に食事の招待を申し出たが、先約があると
    断られる。これは釈尊が、身分や職業や性別より何よりも約束を重んじたこと意味する。

 *13; 「如来の法には、教師のにぎりこぶしはない(弟子に隠すような秘密はない)。」「如来は、私はサンガを導く
    であろうとか、サンガは私を頼っていると思うことはない。」「この世で自らを島(燈明)とし、自らを依り所
    として、他を拠り所とせず、法を島(燈明)とし、法を拠り所として、他を拠り所とせずにあれ。」

 *14; 四神足…優れた精神統一を得ようと願い(欲神足)、努力し(勤神足)、心を専注し(心神足)、
        思惟観察(観神足)すること。
 *15; 三十七道品…四念処・四正勤・四神足・五根・五力・七菩提分・八正道分
 *16; 仏滅後にあっても、仏説とされるものが正しいかどうかを判定する基準を四種類に分けて示したもの。
 *17; スーカラ・マッダヴァという、きのこ、或いは豚肉の料理。
 *18; 悟りを得た時はまだ煩悩の拠り所となる肉体があるため「有余依涅槃」(サウパーディセーナ・ニッバーナ、
    梵;ソーパディシェーサ・ニルヴァーナ)といい、入滅の時はその肉体も滅するので「無余依涅槃」(アヌパー
    ディセーサ・ニッバーナ、梵;アヌパディシェーサ・ニルヴァーナ)という。
 *19;
 *20; 初禅・第二禅・第三禅・第四禅の四段階の瞑想(四禅定)から空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処
    の四段階の瞑想(四無色定)に入り、四無色定から滅受想定(滅尽定)という、心の働きが全て滅し尽くされた
    無心の静けさの境地に入る。 その後、今度は逆に、滅受想定から非想非非想処無所有処・識無辺処・
    空無辺処・第四禅
・第三禅・第二禅・初禅に入り、さらに初禅・第二禅・第三禅・第四禅とみたび第四禅に
    入られたところで般涅槃に入られたのです。 なお、
四禅定と四無色定を合わせて「四禅八定」といい、
    さらに滅受想定を加えて「九次第定」と総称する。
 *21; 南伝によれば
ヴェーサーカ月の満月の日とある。







< 古代インドの社会と宗教 >
どの宗教でもそうであるが、それを生む地域の地政学的特性や気候・風土、社会、歴史などを知ることは、宗教を理解する上でとても重要である。

インドはユーラシア大陸の南部においてインド洋に突出した半島であり、ほぼ倒立二等辺三角形をなす。 それは半島というよりはむしろ大陸(亜大陸)であり、面積は425万平方キロ(現在はパキスタンとバングラデシュが分離独立し329万平方キロ)で、西欧全部に匹敵する。 北はヒマラヤ山脈やヒンドゥークシュ山脈、パトカイ山脈によって大陸の他と区画され、東はベンガル湾、西はアラビア海にのぞみ、南端はコモリン岬
(カンニヤークマリ)をもってインド洋にあい対している。 このような地理的条件は、インドの孤立性を示し、西洋に対立した東洋の文化圏において、インドが他の東洋の地域であるペルシアや中国とも一応区別される独立の文化体系を形成するのに役立っている。 しかしながら、インドのもつこのような孤立性が、単に他との無関係を示すものではないということは、この国の歴史を見ればよくわかる。

また、北緯8度から37度で緯度から言えば熱帯から温帯にわたるが、概して熱帯である。
1年の半分は南西季節風が大陸に向かって吹き、もう半分は北東季節風が海に向かって吹く。
このモンスーンの変化に伴って、季節はおよそ夏(3〜5月)・雨期(6〜9月)・冬(10〜2月)の三季にわかれる。 モンスーン地帯に位置し、そのことが住民の日常生活に相当な影響を与えているものと考えられる。 そして、暑熱の酷烈なこと、湿潤の高度なこと、大気が清澄で乾燥していることなどが、住民に受動的・忍従的・思索的な性格を付与したとみることができる。

 民族は、先住民であるムンダー人、ドラヴィダ人をはじめ、その系統のもの、侵入民族のアーリヤ人とその系統のもの、並びに彼らと先住民との混血など複雑。

 このような厳しい風土的環境や人種的錯雑性よりなる複雑な社会構造の中、あらゆる学問や思想が現実生活と分離せず実践生活と密接に結びついて発達していったものと考えられる。 それ故、生活は単に現在のみに留まらず、永遠の生命につながる生活を希求するところから、その思想は極めて宗教的色彩に富んだものとなる。


・ヴェーダ
 紀元前3000年頃、インド西部(パンジャーブ地方)にはモヘンジョダロやハラッパの遺跡で有名なインダス文明が成立し、独自の文化を持っていた。 また、各地にはムンダー人やドラヴィタ人など多くの先住民族が住んでおり、性器崇拝、蛇神・樹神崇拝等の原始宗教が行われていた。 ところが、そこへ侵攻したアーリア人が原住民を征服し独自の文化や宗教を成立させる。 最初に作成したのがヴェーダである。 ヴェーダの基本的な部分であるサンヒター(本集)には4種(リグ、サーマ、ヤジュル、アタルヴァ)あり、『リグ・ヴェーダ』が最も古く、紀元前1500〜1000年頃の成立とみられている。 これは、神(デーヴァ、天)への讃歌の集成で、自然界の構成要素や現象、威力、抽象的概念などが神格化させて崇拝の対象としている。

・ブラーフマナ
 パンジャーブ地方に定住していたアーリア人は、その後農業に適したガンジスとヤムナー両河に挟まれた肥沃な平原に移住を始め、小村落をなして司祭者を中心とした氏族制農村を確立。 祭式の発展にともなって、4つのヴェーダに対してそれぞれ注釈書を作成。 この文書群をブラーフマナ(梵書)という。 成立は紀元前1000〜800年頃。ブラーフマナには祭式の細かい規定が定められ、司祭者は専門の知識を必要とし世襲の職業となった。 彼らは供養を深玄なものとして日常生活に関係づけたため、人間の幸不幸は司祭の如何に支配されると考えられるにいたる。 かくして、祭式は万能となり、ヴェーダに通じた司祭者は神に等しい存在とみなされた。 また、王族も独立の階級を形成し、一般の職業は世襲となり、原住民は隷民として労役に服す。 ここにヴァルナ(四姓制度)、つまりカースト制度が成立。 四姓とは、 1) 司祭者(ブラーフマナ、婆羅門)、 2) 王族(クシャトリヤ)、 3) 庶民(ヴァイシャ)、 4) 隷民(スードラ)。

・ウパニシャッド
 ブラーフマナと同様に、4つのヴェーダに付随された文献に、アーラヌヤカとウパニシャッドがある。アーラヌヤカは森林において伝授される秘密の教えで、ブラーフマナからウパニシャッドにいたる過渡期の聖典。 ウパニシャッドは「近くに座る」意味から転じて、師から弟子に口伝される「秘密の教え」を意味するようになり、その秘教を集成した聖典の名称となる。 この文献は広義のヴェーダ聖典の終わりに位置することからヴェーダーンタともいわれる。 ウパニシャッドには200以上の文献があり、これらは長期にわたる思想展開の所産であり、種々の要素が混入している。 古代ウパニシャッドは上古(散文、紀元前800〜500年)、中古(韻文、紀元前500〜200年)、中世(散文、紀元前200年)に分けられ、それ以降を新ウパニシャッド(散文と韻文、紀元前200〜紀元後1600年)と名づけている。
 ウパニシャッドでは、宇宙の根本原理としてブラフマン(梵)、個人の統一原理をアートマン(我)と考え、それらを同一視する哲学<
梵我一如>が行われた。 また、人間の行為を善悪の果報という道徳的要求によって基礎づけ、前世の業(カルマ)によって現在の果報を規定し、現在の業によって未来の果報を予告する輪廻転生の思想が発展。 「五火二道」の輪廻説はその代表。 また、輪廻(サンサーラ)から解脱する境地なども説かれる。 このようにして、業・輪廻・解脱の思想は、後世のインド思想に多大な影響を与えることとなる。

・六師外道
 ガンジスとヤムナー両河に挟まれた地域に定住していたアーリヤ人は、その後次第に東方のガンジス中流域に移住、先住民との混合が進み四姓制度が混乱。また、商工業の発達にともない多数の小都市が成立、これらの小都市を中心に多数の小国家が形成され、王族や資産家の発言力が増すなど、大きな社会変革期を迎えこととなる。 こうした新しい社会では、祭祀を中心としたヴェーダの宗教や神秘的ウパニシャッドは否定され、多くの新進の思想家を輩出した。 彼らは、バラモンに対する革新的思想家としてサマナ
(スラーマナ、沙門)と呼ばれ六十二見や363の論争家が伝えられているが、その中で主要な6つの教えを仏教(内道)に対して六師外道と呼ぶ。

六師とは、
@アジタ・ケーサカンバラ(アジタ・ケーシャカンバラ)・・・・・・・・・・唯物論者、快楽主義者
Aサンジャヤ・ベーラッティプッタ(サンジャヤ・ヴァイラーティプトラ)・・・懐疑論者、不可知論者
Bマッカリ・ゴーサーラ(マスカリー・ゴーシャリープトラ)・・・・・・・・・運命論者
Cパクダ・カッチャーヤナ(カクダ・カーティヤーヤナ) ・・・・・・・・・・無因論者
Dプーラナ・カッサパ(プーラナ・カーシュヤパ) ・・・・・・・・・・・・・道徳否定論者
Eニガンタ・ナータプッタ(ニルグランタ・ジュニャータプトラ、マハーヴィーラ)…相対論者、苦行主義者。

@は人間の構成要素を地・水・火・風の四元素とし、身体の破滅と共に消滅すると説く。
  これは無神論の立場で、感覚的唯物論で順世派(ロカーヤタ)の先駆とみられる。
Aは釈尊の高弟サーリプッタとモッガラーナの先師で、認識の客観的妥当性を否定する
  不可知論(アジュナーナヴァーダ)を唱えた。
Bは邪命外道(アージーヴィカ)の代表で、生けるものの構成要素を霊魂・地・水・火・風・虚空・得・失・
  苦・楽・生・死の十二種とし、業による輪廻を否定して無因論を主張。
Cはアジタの四元素説に苦・楽・命我を加えた七要素説を唱えた。
Dは道徳的善悪の行為がそれぞれ善悪の果報を生じることはないと因縁や業を否定し無道徳論を説いた。
Eはジャイナ教祖ヴァルダマーナのことで、マハーヴィーラ(大雄)もしくはジナ(勝者)とも言われ、
  かれ以前に存在した宗派ニガンタ派のナータ族の出身からナータプッタとも呼ばれた。
  彼はパーサによるニガンタ派の教えを改め、不殺生・不妄語・離不与取・不邪淫・無所得の五大誓を
  たてた。
  また、彼の世界観は釈尊の無我説とは対照的で、運動の条件(ダルマ)、静止の条件(アダルマ)、
  虚空(アーカーサ)、命我(ジーヴァ)、素材(プドガラ)の五種の有聚(アスティカーヤ)によって
  説明される。








< 正覚内容 >
正覚を成就し仏陀となった釈尊であるが、その内容は、諸伝の示すところによれば、それは「縁起の理法」であり、この世に存在するものは凡て相互依存の関係性においてある(因縁生起、此縁性果)というのがその趣意である。この縁起の理法から、四諦八正道(中道)などの具体的な教えが示された。また、後に縁起の理法の最も整ったものとしてまとめられたのが十二支縁起である。

三法印
(四法印)・・・仏教の基本思想。
  ・諸行無常・・・すべてのものは変化し続け、常なるものは存在しない。
  ・諸法無我・・・すべてのものは「因縁」により生じたもので、
          他との関係から独立した自己は存在しない(実体はない)。
  ・涅槃寂静・・・煩悩を滅した涅槃(悟りの境地)は安らかである。
  ・一切皆苦・・・すべては苦である。
  このうち、「一切皆苦」を除いたもの(北伝)、
  又は「涅槃寂静」を除いたもの(南伝)を「三法印」と呼ぶ。

四(聖)諦(チャッターリ・アリヤサッチャーニ、梵;チャトヴァーリ・アーリヤサティヤーニ)…四つの真理。
  ・苦諦
(梵;ドゥフカ・サトヤ)… この世は全て苦であるという真実。
                その根本的なものが四苦八苦
  ・集諦(梵;サムダヤ・サトヤ)… 苦の原因は様々な煩悩にあるという真実。
                               → 十二縁起により説明。
  ・滅諦(梵;ニローダ・サトヤ)… 苦の原因を知り、それを消せば悟りに至るという真実。
  ・道諦(梵;マールガ・サトヤ)… 悟りに至るための実践法があるという真実。
                               → 八正道により説明。

八正道(アリヤー・アッタンギカ・マッガ、梵;アーリヤ・アシュターンギカ・マールガ)…八つの方法。
  @ 正 見(梵;サンヤグ・ドゥリシュティ) ・・・正しい見方。
  A 正 思(梵;サンヤク・サンカルパ)  ・・・正しい考え方。
  B 正 語(梵;サンヤグ・ヴァーチュ)…正しい言葉。嘘、悪口、戯言、飾った言葉などを言わないこと。

  C 正 業(梵;サンヤク・カルマ・アンタ) …正しい行ない。殺生、盗み、邪淫などをしないこと。
  D 正 命(梵;サンヤグ・アージーヴァ) ・・・正しい生き方(生活)。
  E 正精進(梵;サンヤグ・ヴィヤーヤーマ)・・・正しい努力。
  F 正 念(梵;サンヤク・スムリティ)…正しい思念。
心の落着きを保ち、常に正しい思いを心にとどめておくこと。
  G 正 定(梵;サンヤク・サマーディ)…正しい禅定。心を散乱せず、静かに精神を集中すること。

十二支縁起(ドヴァーダサンガ・パティッチャ・サムッパーダ、梵;ドヴァーダシャンガ・プラティートヤ・サムットパーダ)
                             ・・・苦の原因。十二因縁とも。
  @ 無明
(梵;アヴィドヤー)   …全ての苦をもたらす根本原因。無知。
  A 行
(梵;サンスカーラ)   …形成されたもの。無明によって生じた誤った行為。
  B 識
(梵;ヴィジュニャーナ)  …認識作用。行によって条件づけられた心。
  C 名色
(梵;ナーマ・ルーパ)  …名称と形。識の対象。色・声・香・味・触・法(六境)。
  D 六処
(梵;シャド・アーヤタナ) …眼・耳・鼻・舌・身・意(六根)の六つ感覚器官。六入。
  E 触
(梵;スパルシャ)    …感覚器官と対象との接触。
  F 受
(梵;ヴェーダナー)    …触によって起こる感受作用。
  G 愛
(梵;トゥリシュナー)  …受によって起こる欲望。渇愛。
  H 取
(梵;スパルシャ)    …執着。
  I 有
(梵;スパルシャ)    …執着が煩悩なる存在になること。
  J 生
(梵;ジャーティ)    …生まれること。
  K老死(梵;ジャラー・マラナ)  …生によって起こる老いや死。

まず第一に、解決されなければならない課題としての「苦」をしっかりと知る
苦諦
愛する人と別れてしまう、嫌な人と会わなくてはいけない(付き合わなくてはいけない)、欲しい物が手に入らない、病気になる、老いる、死ぬ・・・。

そして第二に、それぞれの「苦」の原因を考える
集諦
数ある「苦」の中でも、現実に避けることのできない「苦」の代表が老い死にゆくことであり、
「老死」の原因は生まれたからである。 その「生」の原因は輪廻に流転してさまようからで(「有」)、
さまようのは執着があるからで(「取」)、執着するのは欲望があるからで(「愛」)、
欲望が起こるのは感受性が働くからで(「受」)、感受性は外界との接触があるからで(「触」)、
外界との接触は感覚器官を通して感じるからで(「六処」)、
感じるのは物や音や匂いなどがあるからで(「名色」)、
それらは識別する心があるからである(「識」)。
さらに、その心は真理に対して無知であるところから形作られたもの(「行」)であるので、
最終的に「苦」の根本原因は、輪廻流転の迷いの全体を正しく理解していないこと(「無明」)となる。

その上で第三に、その課題の目標として「苦」を滅するとは迷妄・流転からの解脱・涅槃であることを知り
滅諦、第四に、解脱・涅槃に達する道を実践すること道諦であると説く。

その道が八正道で、偏見や固定観念にとらわれずあるがままを見極め、正しく考え、正しい言葉遣いをすることで「慧」を磨き、「戒」を守ることで正しい行いと生き方と努力をし、正しい思念と禅定で「定」を磨くこと(*22)によって、「無明」が滅尽し、無明が滅することによって順次に滅していき、ついには老死の苦が滅し、正解脱に至ると示しているのである。

 *22; 戒・定・慧を三学といい、仏道修行者の修すべき3つの実践方法。




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