< 開 祖 の お 話 >

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聖徳太子
聖徳太子(*1)は敏達3年(574)、橘豊日皇子(後の用明天皇)と穴穂部間人皇女との間に生まれる。
天皇家系図
崇仏論争が起こり、物部守屋の変で太子は蘇我軍に加勢するが、主に軍事を司っていた物部氏の屈強な兵に三度撃退される。 『日本書紀』によると、そこで太子は白膠木
(ぬるで)の木で四天王(*2)の像を彫り、もし勝利すれば寺塔を建立すると誓い、戦勝を祈願。馬子も寺塔を建立し三宝を流布すると誓った。 戦いに勝利した馬子と太子は誓願を守り、摂津国の守屋の宅に四天王寺を建立した(*3)

摂政となった翌年の推古2年(594)には
三宝興隆の詔を発し、臣・連らは君・親の恩に報いるため競って寺を建立。 推古3年(595)、高句麗の僧慧慈や百済の僧慧聡が渡来、太子は慧慈を師と仰いで仏法の研鑽を深める。

推古11年(603)に冠位十二階の制
(*4)を定める。

推古12年(604)4月3日には
憲法十七条を制定。
「和を以て貴しと為す」を第一条とし、
和を実現するための方法として第二条に
「篤く三宝を敬え」と示し、
三宝興隆を条文化。
続いて、「
三宝とは、仏・法・僧である。即ち四生の終帰、万国の極宗である。」と説明し、さらに「何れの世、何れの人か、是の法を貴ばざるべき。」と、三宝の中の法が、
いかなる時代・いかなる人によってでも尊重されるべき絶対の法であると意義づける。

推古14年(606)7月、橘宮で勝鬘経を講じ、続いて岡本宮で法華経を講じた。
また、父用明天皇のご遺命により
法隆寺を創建したのは推古15年と伝えられている。

推古15年(607)、小野妹子が「日出処天子…」の対等外交の国書を持参して隋国に派遣される(
遣隋使)。 翌年、隋の煬帝の答礼使として裴世清が来日。 同年妹子が高向玄理・僧旻・南淵請安ら4人の留学生と4人の学問僧を従え、「東天皇…」の国書を携行して再び遣隋。 ここに、諸寺の建立・講経・沙門学僧等の養成と、仏・法・僧の三宝が調うことになる。

『勝鬘経義疏』
(伝推古19年)・『維摩経義疏』(伝推古21年)『法華経義疏』(伝推古23年)
                                 
三経義疏(*5)を著す。

推古22年(614)、犬上君御田鍬を隋に派遣。

推古28年(620)、歴史書である『天皇記』と『国記』を馬子と共に編集。
         併せて『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』もつくられた。

推古30年(622)2月22日甍逝す。


   *1; 厩戸皇子の他、豊聡耳(とよとみみ)皇子や上宮(かみつみや)太子などとも呼ばれる。

   *2; 持国・増長・広目・多聞の四天をさし、須弥山の中腹に住して仏法を守護する護法神。

   *3; 。
   *4; 徳・仁・礼・信・義・智の6種を大小に分けて12階とし、色別の冠を授けた。氏姓制度の
     門閥世襲打破、人材登用の道を開き、 豪族を官人(律令制下の官吏)に編成してゆく第一歩。
   *5; 法華経・
勝鬘経・維摩経の注釈書で、法華経義疏四巻、勝鬘経義疏一巻、維摩経義疏三巻。
     現存の『法華経義疏』は、太子自筆と伝えられ、伝存する日本最初の著書で最古の書物。





最 澄 (伝教大師) (767〜822) [ 天台宗 ]

最澄は、奈良時代の終わり頃、神護景雲元年(767)
(*1)に近江国滋賀郡古市郷(現在の滋賀県大津市)で誕生。 父は渡来人の末裔、三津首百枝(みつのおびとももえ)。 三津首氏は、後漢(25-220)最後の皇帝(第14代)の献帝(孝献帝、180-234、在位189-220)の血統に連なるといわれており、その後裔の登万貴王が渡来して以来400年、朝廷から賜った土地(滋賀津・大津・粟津の三津)の首(おびと)、つまりこの地域の有力者である。母は、藤原北家の出身と伝えられている。
幼名は定かではないが、広野というように伝わっている。

宝亀 9年(778)、12歳で近江国分寺に入り、国師の行表(
ぎょうひょう、722-797)(*2)に師事し、
三論・戒律・禅
(*3)を学ぶ。 宝亀11年(780)、14歳で得度し(*4)、最澄という名を与えられる。
延暦 4(785)年4月、19歳の時に東大寺戒壇院にて具足戒
(*5)を授けられ、
国家公認の僧侶の身分を取得。 ところが、その三ヶ月後、比叡山に入り草庵
(*6)を結ぶ。
この突然の籠山の理由を『願文
(がんもん)』の中で次のように述べている。
  「悠々たる三界は純ら
(もっぱら)苦にして安きこと無く、擾々たる四生(*7)は唯だ
   患いにして楽しからざるなり。牟尼の日久しく隠れて慈尊
(*8)の月未だ照さず。
   三災
(*9)の危きに近づき五濁(*10)の深きに没む。
   加以ず
(しかのみならず)、風命保ち難く露体消え易し。
   草堂楽しみ無しと雖も然も老少白骨を散じ曝らす。(中略)
   法皇牟尼は大海の針妙高の線を仮て人身の得難きを喩況
(ゆきょう)し、
   古賢禹王
(こけんうおう)は一寸の陰、半寸の暇を惜しみて一生の空しく過ぐる
   を歎勧せり。(中略)
   我れ未だ六根相似の位を得ざるより以還
(このかた)出仮せじ。
   未だ理を照らす心を得ざるより以還才芸あらじ。
   未だ浄戒を具足することを得ざるより以還檀主の法会に預らじ。
   未だ般若の心を得ざるより以還世間の人事の縁務に著せじ。相似の位を除く。
   三際の中間にて、修する所の功徳、独り己が身に受けず、
   普く有識に廻旋して、悉く皆無上菩提を得しめん。
   伏して願わくは、解脱の味ひ独り飲まず、安楽の果独り証せず、
   法界の衆生、同じく妙覚に登り、法界の衆生、同じく妙味を服せん。」

ここには、人生の無常・はかなさと人身の得難きを強く感じたのと、南都仏教の、戒律「四部律」を重んじて自己の解脱を重視した自利優先の在り方、つまりあらゆる衆生の救済をはかろうとする利他性に欠いた在り方への反省と批判が伺われる。

延暦 7年(788)、「阿耨多羅三藐三菩提の仏たち 我が立つ杣に 冥加あらせ給へ」と
一乗止観院(現、根本中堂)を建立。 本尊とすべく等身の薬師如来像を赤栴檀で自ら作り、「明らけく 後の仏の 御世までも 光り伝へよ 法のともしび」(『新拾遺集』)と詠んで本尊の前に燈明(*11)を奉げ、厳しい修行生活に励む。 そこで、先に鑑真(754年来日)がもたらした随の天台智者大師(538−597)の「仏教の全容を総合体系的に整理し、仏説の教理と仏教の実践道を明確に示した天台教学の典籍」を取り寄せてひたすらその法華経一乗思想の研鑽につとめた。

延暦13年(794)、桓武天皇が和気清麻呂の献言で、それまでは目立った集落もほとんどない湿地帯であった山背(のち山城)国葛野郡宇太村へ遷都。 遷都に先立ち、桓武天皇の御願により一乗止観院にて初度供養会が執り行われる。

延暦16年(797)、内供奉
(*12)に任ぜられ、延暦21年(802)、和気弘世らの請いに応じて高雄山寺(現、神護寺)で天台を講じる。

延暦23年(804)38歳の時、桓武天皇の天台振興の志により還学生
(*13)として遺唐使と共に入唐。 弟子の義真(*14)を訳僧として随行。 台州の龍興寺および天台山の国清寺で道邃(どうずい)や行満から天台教学(円学)を学び、禅林寺の?然(しゅくねん)から禅を、国清寺の惟象(ゆいしょう)から雑曼荼羅を(*15)、そして延暦24年(805)には道邃から菩薩戒(大乗戒)をそれぞれ授けられる。 さらに越州(現、紹興)の龍興寺で順暁から胎蔵界・金剛界両部曼陀羅の相承と灌頂を受け、円・禅・戒・密の四宗を相承し、遣唐使と共に帰国。弟子経珍を朝廷に遣わし、持ち帰った経典や仏具類を「請来目録」(*16)としてまとめ、朝廷に献上。同年、病み衰えていた桓武天皇の命により高雄山寺にて灌頂を行う<高雄灌頂>

延暦25年(806)1月26日、天台宗にも新たに年分度者
(*17)二名(遮那業・止観業)が割り当てられ、ここに天台法華宗が勅許開宗された。
しかしその2ヶ月後の3月、桓武天皇崩御。後ろ盾を失う。 10月空海が帰国。

最澄は密教習得の不十分さを自覚し、弘仁 3年(812)高雄山寺で空海から金剛界、次いで胎蔵界の結縁灌頂を受ける。 しかし、伝法阿闍梨灌頂の伝授は時期尚早と断られる。
弘仁 4年(813)、弟子の貞聰を遣わして『理趣釈経』の借用を空海に申し出るも拒絶される。
さらに弘仁 7年(816)、高弟の泰範の帰属問題から宗教論争に発展し、両者は訣別。
天台密教(台密)の充実は後の円仁・円珍によることに。

弘仁 6年(815)8月、和気真綱の要請で、南都の大安寺で『法華経』を講義。 南都の僧と論争。

弘仁 8年(817)、東国へ赴き、布教を進めるうちに、会津の法相宗の学僧徳一との間で教理論争に
<三一権実論争>。 といっても、直接会ってではなく互いの著書によってであり、徳一が『仏性抄』、『法華要略』、『中辺義鏡』、『庶異見草』、『慧日羽足』、『中辺義鏡残』などを著し、最澄は『照権実鏡』、『守護国界章』(818年)、『法華去惑』、『決権実論』、『法華秀句』(821年)、『再生敗種義』などを著して論争を展開。最大の論点は、法相の教えと天台の教え、および三乗思想と一乗思想のどちらが正しいのか(『法華経』は権教(かりの教え)か真実教か)という点であった(*18)

弘仁 9年(818)から翌年にかけて
『山家学生式』(*19)を著し、学生を養成するための法式を定めて、南都仏教の戒壇からの独立を宣言し、大乗戒壇(*20)設立を目指す。

弘仁11年(820)、大乗戒壇設立に反対する南都僧綱に論駁した著述
『顕戒論』を上奏。

弘仁13年(822)6月4日(旧暦)、比叡山中道院で入滅。行年56歳であった。

入滅を悼み、右大臣藤原冬嗣や中納言良峯安世らが大乗戒壇建立を奏上。
滅後7日目の6月11日、嵯峨天皇の温情で設立の勅許が下る。
翌年2月26日、最澄を信任した桓武天皇の代の年号にちなみ、「延暦寺」の寺号を賜わる。
大乗戒壇院が建立されたのは天長 4年(827年)5月1日のことである。

貞観 8年(866年)7月、清和天皇より
伝教大師の謚号を賜わる。
これは日本最初の大師号である。


   * 1; 天平神護2年(766)の説もある。

   * 2; 南都大安寺出身の僧で、天平8年(736)に唐から渡来した道王睿(どうせん)の弟子。

   * 3; 北宗禅のことで、いわゆる鎌倉時代以後の禅宗は「五家七宗」と総称される南宗禅の一派であり、
     別系統のもの。
   * 4; 僧侶になるには、3年以上寺院生活をし、『法華経』『金光明経』『金剛般若経』等を暗誦する
     試験に合格して三帰依と十戒を授けられ、それから3つの公認された戒壇があり、そこで
     具足戒を授けられなければならなかった。当時の僧侶はいわゆる国家資格だったのである。

   * 5; 大戒ともいう。律によってその数は異なるが、一般に比丘は二百五十戒、比丘尼は三百四十八戒とする。
     東大寺戒壇院のほか、筑紫太宰府の観世音寺や下野の薬師寺の戒壇院でも授かることが出来た。
   * 6; 現在の東塔紅葉渓の本願堂あたりだったといわれている。

   * 7; 湿生・卵生・胎生・化生の四つの生まれ方のこと。
   * 8; 弥勒菩薩(マイトレーヤ)のこと。釈尊滅後五十六億七千万年後に現れるとされている。
   * 9; 火災・水災・風災のこと。これを「大の三災」といい、
     これに対して、兵災・疾災・饉災を「小の三災」という。
   *10; 劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁のこと。

   *11; いわゆる「不滅の燈明」のはじまり。のちに入唐して天台山から持ち帰った火を加えて重みが増し、
     現在でも根本中堂において護持されている。
   *12; 略して内供とも供奉ともいう。宮中に設けられた仏教道場(内道場)に奉仕する僧の職名。
     宝亀3年(772)当初から、十禅師(天皇の安泰を祈る役僧で、定員が10名。)との兼職で
     あったので、内供奉十禅師ともいう。
   *13; げんがくしょう。短期間に学問・仏教を学ぶ者。長期間の留学生(るがくしょう)より格上。
   *14; 781-833。後に、最澄の遺言により天台宗の後継者となり、824年には初代天台座主となる。
     修善大師と称せられる。
   *15; 密教の原初形態は5-6世紀のインドに出現したが、当初から整備された体系をもっていたわけではなかった。
     これに対し、7世紀頃に『大日経』「金剛頂経』が成立し、思想と実践体系が整備された。
     そこで日本では、両経典に依拠する密教を<純密>、それ以前の原始的密教を<雑密>と呼んで区別。
   *16; 『台州録』(127部347巻と禅鎮など)と『 越州録』(120部ほか)。密教経典は150巻。
   *17; 年料度者、年分学生、年分ともいう。毎年諸宗・諸大寺に一定数の度数者を設け、その中で
     各々の所定の経論による試験に通った者に得度を許可する制度。
     法相宗・三論宗など南都六宗と、新たに天台宗2名の計12名と定められた。
   *18; 徳一の説く三乗思想とは、仏の教えには声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の3つの乗物があり、五性各別説により、
     声聞・縁覚は悟りを得られず菩薩のみが成仏しうるとし、三乗の差別があるのは真実であると
     主張(三乗真実一乗方便)。
     一方、『法華経』を信奉する最澄は、三乗の差別があるのは方便であって真実には一乗、
     つまり全ての人が等しく成仏できるとする(三乗方便一乗真実)。
   *19; 六条式・八条式・四条式の3部の総称で、詳しくは、
     「六条式」は『天台法華宗年分学生式』といい、弘仁9年5月13日に上奏。
     「八条式」は『歓奨天台宗年分学生式』といい、弘仁9年8月27日上奏。
     「四条式」は『天台法華宗年分度者回少向大式』といい。弘仁10年3月15日上奏。
   *20; 大乗仏教独自の戒を授ける壇。

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空 海 (弘法大師) (774〜835) [ 真言宗 ]
宝亀 5年(774)に讃岐国多度郡屏風ケ浦(現在の香川県善通寺市)で誕生。
父は佐伯直田公
(さえきのあたいたぎみ)(*1)。 母は阿刀氏(*2)。 幼名は真魚と伝わっている。

幼少の頃、伯父の阿刀大足
(*3)や味酒浄成(うまざけのよしなり)から教育を受け、15歳のとき大足に伴われ上京し、18歳で大学(*4)に入り明経道で学ぶ。 しかし、ある僧侶から虚空蔵求聞持法を教わったのをきっかけに退学。 阿波の大滝岳や土佐の室戸崎(岬)、さらに石鎚山や吉野山などで求聞持法(*5)などの厳しい修行を重ねる。 そして、延暦16(797)年、24歳の時に『三教指帰』(*6)を著す。

延暦23年(804)31歳の時、遣唐大使藤原葛野麻呂の一行と共に留学生
(*7)として入唐。 唐の都・長安で、まず醴泉寺の般若三蔵や牟尼室利三蔵らから梵語やインド諸思想を学び、その後、当時中国密教の第一人者である青龍寺の恵果(746〜805)に師事。 ほどなく 胎蔵界の五部灌頂を授かり、ついで金剛界の五部灌頂を授かり、「遍照金剛」の灌頂号を与えられる。 さらに伝法阿闍梨の灌頂を授かる。 その4ヶ月後、恵果は青龍寺の東塔院にて大日如来の法印を結びながら示寂。

国使高階真人遠成の一行に便乗して、大同元年(806)10月に帰国。 しばらく太宰府に留まる。

帰国後、まず自ら持ち帰った経典類を「請来日録」
(*8)としてまとめ、高階遠成に託して朝廷に献上。 それによれば、密教経典類は新しく日本に伝えられたものばかりであった。しかし、朝廷の理解を得られず黙殺される。

大同 4年(809)、入京を許され京都の高雄山寺
(*9)に住す。 弘仁元年(810)9月に薬子の変が起こったため、嵯峨天皇の勅許を得て11月に鎮護国家の修法を行う(*10)。 同年、東大寺の別当職に任ぜられる。

弘仁 3年(812)、高雄山寺において最澄に金剛界、次いで胎蔵界の結縁灌頂を執り行う。 その後すぐに、最澄から伝法阿闍梨灌頂伝授の願いがあるも、時期尚早で今後なお3年の実修が必要と拒む。 弘仁 4年(813)、最澄より『理趣釈経』
(*11)の借用を申し入れられるも断固拒絶。 さらに、泰範問題で空海と最澄は訣別。

弘仁 7(816)年高野山を賜わり、
金剛峯寺を建立。 弘仁14(823)年、50歳の時に嵯峨天皇から東寺教王護国寺を賜り、合わせてこの二寺を密教の根本道場とし、インドや中国にはみられなかった密教の組織的、論理的展開を果たし、宗派として大成させたのである。

後に、最澄が伝えた天台宗の密教を「台密」と呼ぶのに対し、空海のそれは東寺の密教「
東密」と呼ばれるよになる。

また、
満濃池の修復(弘仁12年)や綜藝種智院の設立(天長 5年)などの社会事業・文化事業も行い、承和 2(835)年3月21日、高野山で入定。 入定とは、禅定に入っている状態をさし、今なお生きながら禅定に入っていると信じられているのである。

延喜21(921)年醍醐天皇より
弘法大師の諡号を賜る。

主な著書に、
『性霊集』(*12)、『弁顕密二教論』、『即身成仏義』、『声字実相義』、『吽字義』、『十住心論』(*13)、『秘蔵宝鑰』、『真言宗所学経律論目録』、『般若心経秘鍵』などがある。 また、能書家としても知られ、『風信帖』(*14)や『聾瞽指帰』などの真筆が現存。 嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられる。


   * 1; 通名を善通(よしのみち)といい、善通寺の名の由来となる。
     佐伯氏には連流と直流の二系統あり。
     連は皇室とは祖先の違う神別氏族の姓で、佐伯連は大伴氏と同祖にあるとされる。
     直は服属した国造(地方官)に対して統一的に与えられた姓で、かつて大和朝廷に服属した蝦夷を
     佐伯部と呼び、佐伯部を従えた有力豪族が佐伯直と言われている。
     ちなみに国造は大化改新後、
郡司となる。宝亀6年の遣唐副使に任命された佐伯今毛人(いまえみし)
     という人物がいるが、佐伯氏のことを今蝦夷という言い方があったと正倉院文書に出てくる。
     全国に散らばっていた佐伯氏は、大和朝廷服属後、安芸や備後、阿波、讃岐、伊予などの西国に移される。
   * 2; 滅ぼされた物部氏の系統。

   * 3; あとのおおたり。 後に桓武天皇の皇子伊予親王の待講(家庭教師)となる文章博士。
   * 4; 律令では式部省に大学寮が置かれ、明経・明法・紀伝(文章)・算の四道と呼ばれる主要教科があった。
     このうち、『孝経』『論語』などの儒教の経典を学ぶ学科が明経道である。
     学業を終え、大学の試験を通ると太政官に推薦される。
     ちなみに、式部省では、秀才・明経・進士・明法の四科に分かれ試験を受けて登用された

   * 5; 聞持とは見聞覚知したことを覚えて忘れないことで、これを求める法のことをいう。
     一種の記憶力増進の密教的秘法。本尊は虚空蔵菩薩や如意輪観音であるが、多くは前者。
     智慧をつかさどる虚空蔵菩薩の真言を一日1万遍唱え、100日続ければあらゆる仏教の教法を
     暗記することができるとされる。
   * 6; 出家宣言書。 3巻。
     巻上「亀毛先生論」では儒教を、巻中「虚亡隠士論」では道教を、
     巻下「仮名乞児論」では仏教を論じ、儒教・道教・仏教の三教のうち仏教が最も優れていると説く。
     また、巻上「序」で出家の動機を述べている。
   * 7;
20年から30年もの長期間に学問・仏教を学ぶ者。 → 還学生。
   * 8; 『御請来目録』(216部461巻、仏・菩薩像、道具など)
   * 9; 最澄を庇護した和気氏の氏寺。 最澄の取り計らいによることが推測される。
   *10; これを機に、嵯峨天皇の外護を得て、真言密教の法灯をかかげ、真言宗の発展につとめた。
   *11; 『理趣経』不空三蔵訳の注釈書。 一切の人間の欲望が煩悩即菩提の立場から肯定されており、
     男女間の性的交渉こそこの上ない菩薩の境地であり、法悦であるというのが論旨。
     密教の現実肯定思想をもっとも徹底させた書であるが、同時にもっとも誤解されやすい危険な書でもある。
   *12; 835年頃成立の詩文集。 正しくは『遍照発揮性霊集』という。弟子の真済(800〜860)が編集。
   *13; 正しくは『秘密曼荼羅十住心論』という。
   *14; 812年に最澄に送った書状3通を1巻にしたもの。
     東晋の王義之に唐の顔真卿を合わせた書風で大師流と呼ばれる。


最澄・空海 年譜
西暦 元号 天皇 最澄 空海 その他
767 神護景雲元 称徳 近江国で誕生。
774 宝亀 5 光仁 讃岐国で誕生。
778 宝亀 9 行表に師事(12歳)。
780 宝亀11 得度(14歳)。
784 延暦 3 桓武 長岡京 遷都
785 延暦 4 受戒後、籠山(19歳)。 造長岡京使 藤原種継 暗殺
788 延暦 7 一乗止観院建立。 上京(15歳)。
791 延暦 10 大学に入る(18歳)。
794 延暦13 平安京 遷都
797 延暦16 内供奉任命(31歳)。 『三教指帰』(24歳)。
803 延暦22 4月 難波津から出航。
  暴風雨に遭い九州上陸。
第16次遣唐使 出発
804 延暦23
7月 肥前国田ノ浦出発。
9月 明州寧波に入港。
   天台教学を学ぶ。
   禅を学ぶ。
5月 難波津から出航。

8月 福州赤岸鎮に漂着。
11月 福州発。
12月 長安着。
第16次遣唐使 再出発
805 延暦24

3月 大乗菩薩戒を受戒。
5月 寧波から出航。
6月 対馬着。のち帰京。
7月 請来目録 献上。

9月 高雄灌頂。


5月 恵果に師事。
6月 胎蔵界 灌頂
7月 金剛界 灌頂
8月 遍照金剛の灌頂号
1月 皇帝徳宗 病死。
2月 遣唐使 長安発。

5月 遣唐使 寧波発。




12月 恵果 入滅。
806 延暦25 1月 年分度者 勅許(開宗)。 3月 長安発。 3月 桓武天皇 崩御。
大同元 平城 8月 明州発。 5月 平城天皇 即位。
10月 帰国。
809 大同 4 嵯峨 7月 上京を許される。 4月 嵯峨天皇 即位。
810 大同 5 9月 薬子の乱
弘仁元 11月 鎮護国家の修法
812 弘仁 3 高雄山寺にて、金剛・胎蔵界両部の結縁灌頂。
813 弘仁 4 最澄より『理趣釈経』の借用の申し出あるも、空海は拒否。
816 弘仁 7 両者は訣別。 高野山 開創。
818 弘仁 9 5月 『天台法華宗年分学生式』
8月
『歓奨天台宗年分学生式』
819 弘仁10 3月 『天台法華宗年分度者回少向大式』
820 弘仁11 『顕戒論』
821 弘仁12 満濃池 修復。
822 弘仁13 6月4日 入滅(行年56歳)
823 弘仁14 淳和 2月26日 「延暦寺」寺額 東寺 勅賜。 4月 淳和天皇 即位。
827 天長 4 大乗戒壇院 建立。
828 天長 5 綜芸種智院 設立。
835 承和 2 仁明 3月21日 入定(行年62歳)
年分度者 勅許。






良 忍 (1072〜1132) [ 融通念仏宗 ]
延久 4年(1072)に尾張国知多郡富田(現在の愛知県東海市)の領主・秦道武の子として生まれる。
12歳で比叡山に登り、良賀のもとで得度し、良仁という名を与えられる。
東塔阿弥陀房の堂僧として勤め、良賀に天台教学を、園城寺の禅仁から六乗戒を、
仁和寺の永意からは密教を学び、21歳で常行堂の講主
(*1)となる。

しかし、23歳の時、世俗化が進んだ比叡山を降りて大原に隠棲し、来迎院、浄蓮華院を建て、
一日六万遍の念仏を称えるかたわら、『法華経』の読経や写経に励み、さらには睡魔に打ち勝つために手足の指を切り燃やして仏経を供養するなど、過酷な苦行に打ち込んだ。

永久 5年(1117)5月15日、念仏三昧中に阿弥陀仏の示現を受け、
  「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行
               是名他力往生 十界一念 融通念仏 億百万遍 功徳円満」
   (一人の唱える念仏の功徳が万人(多くの人)の念仏の功徳となり、
                  万人の唱える念仏が、また一人の念仏の功徳となる)
という『弥陀の妙偈』を感得。 融通念仏宗を開宗。 時に良忍46歳であった。

天治元年(1124)6月9日、鳥羽上皇の勅によって京都市中に出て、上皇や公卿にも日課として百万遍の口称念仏を勧め、鳥羽上皇から『融通念仏勧進帳』を賜る。 この後、諸国を教化し、大治 2年(1127)、摂津国住吉郡平野(大阪市平野区)の修楽寺(後の大念仏寺)を根本道場とした。

天承 2年(1132)、大原来迎院で入滅。 61歳であった。

なお、衰退していた天台声明の統一をはかり
(*2)、大原流魚山声明(*3)を大成し、天台声明中興の祖と仰がれている。

安永 2(1773)年、聖應大師の諡号を賜る。


   * 1; 学問する修行僧を教導する職。
   * 2; 円仁以降、曲節が分立していた。

   * 3; 大原の来迎院と勝林院を道場とし、中国声明発祥の地になぞらえて「魚山」と称した。






法 然 (1133〜1212) [ 浄土宗 ]


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